酒場文化研究所

2020.2.27

日本酒とマーケティングのアブナイ関係

随分昔の話だが、スーパーで「コシヒカリ使用」を大きく書かれた日本酒を見かけた。当時はまだあまり酒造りに関する知識もなかったのだが、さすがに「ん?」と思ったのを憶えている。

コシヒカリは、言うまでもなく食用米の王様だが、酒造に適した米はまた別であるという程度の知識はあったからだ。その後もっと日本酒を知るようになって、コシヒカリで造られた美味しいお酒にも出会ったが、この商品パッケージに関して言えば、食用米としてのコシヒカリのブランドを利用して、消費者の無知につけこもうとした意図が全くなかったとは言えないだろう。

「四段仕込み」と謳われた商品もある。当時の私くらいの知識であれば、三段仕込みより一層手間が掛かっているんだから良い酒だと考えるのも無理はない。しかし、その四段目というのは糖化酵素を使用して醪に甘みをつけるために行われるものと知っては、疑念が湧いてくる。きちんと造っていれば三段で事足りるものを、甘みを加えて調味しなければならないお酒が果たして良いお酒だろうか。上原浩先生も「四段仕込みは邪道」と一刀両断にしておられた。

後で足された甘みであろうとも結果美味しければいいじゃないかと考える人もいると思う。「本醸造酒」の醸造アルコール添加だって、すっきりとした味に仕上げる調味と言えるのだから。私がここで問題にしたいのは、そこではない。

私も広告業界で長くマーケティングに関わってきたが、これといって取り柄のない商品でも何か良いところを見つけて売らなければならないのがマーケティングの立場である。何か良いところが見つかればいいが、見つからなくても良く思わせるような文句を考えなければならない。それは分かっているが、こと日本酒のことになると、逆の立場でものを考えてしまう。狡猾なマーケティングに善良な酒徒が騙されないようにと。

騙すというと言い過ぎだが、日本酒の宣伝文句には難しい酒造用語が多く使われる。難しければ難しいほど、伝統に則った有難い商品であるようなイメージを与えるのに便利である。「生酛」や「山廃」もそのひとつだ。日本酒通であれば、通り一遍の説明くらいはできるかもしれないが、その本質や意義まで理解している人はどれくらいいるだろう。そういう私だって同じだ。しかし、表面的な知識で語れるような相手でないことは知っている。

日本の酒造りの基礎である「生酛」に、私は人一倍の興味がある。蔵を訪ねては酛場を見学したり、時には酛摺りに参加させてもらったりもしたけれど、知れば知るほど底知れぬ神秘の世界に迷い込むようだ。自分で造るわけでもなし、「生酛」を完全に理解できる日がいつか来るとは思えない。

最近の風潮として、伝統的な酒造りが見直されている。「生酛」という言葉が広く知られ、生酛の酒造りに取り組む蔵も増えている。素晴らしい傾向ではあるが、売らんがために、「生酛」と名乗りたいがために、本質を求めることなく造られたお酒があるとしたら残念なことだと思う。

生酛のお酒ほど形容が難しいものはない。単純化された言葉ではとても言い表すことができない。例えば「骨太」という表現がよく使われるが、それを「ゴツい」という意味で捉えるとニュアンスが違ってくる。「複雑」とは言っても「味が多い」のとはまた違う。ゴツゴツした取っつきにくいお酒や、味が多くてくどいお酒を「生酛らしい」と評する人もいるが、それは違うと思うのだ。飲みにくいと感じる酒はやはり不出来なのであって、通ぶって飲みにくさを有難がるのは滑稽である。その反対に「生酛」という形式だけを踏んでみましたと言わんばかりの薄っぺらな酒もある。「飲みやすーい」で終わってしまっては生酛が生酛である意味がない。味わいに幅と奥行きがあってなお、洗練されて滑らか。それが本当の生酛だと私は思っている。

マーケティングには功罪がある。その力でお酒が売れることは功である。反面、その魔力によって表層の単純化されたイメージに惑わされ、本質が見えにくくなるのであれば罪となる。安易なイメージ戦略で日本酒本来の魅力が損なわれないことを願いたい。